境内紹介

430年以上の歴史ある寺院の境内をご紹介。いつでもどなたでもお参りいただけます。
境内には法要やお葬式を営む本堂をはじめ、八王子市史跡である石見土手や松本斗機蔵の墓などの文化財もございます。
法要等でご心配な点がございましたらお問い合わせください。

二宮尊徳像

平成10年、当山の檀家である、故石黒直一様の敷地にあった像です。元々は、八王子市立第二小学校にあったものです。石黒直一様没後、境内に奉られています。

千人同心事蹟碑

千人同心事蹟碑は当初は、昭和16年八王子市立第五小学校の裏に立てられましたが、昭和41年千人同心ゆかりの当院へ移設されました。

石見土手

寺の裏庭には、大久保石見守長安が浅川の氾濫を防ぐ目的で築き上げた堤防「石見土手」の一部が残っております。(八王子市指定旧跡)

本堂内陣

現本堂は、平成3年3月に落慶いたしました。特に目を惹くのは本尊上の仏天蓋です。これは、宗格院型といって、当山にしかない型をしています。

寿老尊

境内左手にある八角地蔵堂は「寶珠閣」といわれ、その中に八王子七福神の寿老尊を祀っています。

宗格院本堂の聯(れん)

本堂の聯には、以下のような言葉が書かれています。
良价の禅は八王の里を流れ庶民を潤す 宗格の佛法は、三界を無尽に救済す

慈光観音

昭和19年、大東亜戦争(第二次世界大戦)の犠牲者を追善する為に建立されました。材質は、小松石を使っています。

河西祐助 二百回忌

河西祐助は八王子千人同心組頭見習いで、幕末の北方警備と蝦夷地の開拓に尽くしました。河西家は南北朝時代新田義貞の家臣まで遡る家柄であり、その河西家代々の菩提寺である、当院に河西祐助二百回忌の記念碑が建立されました。

せき地蔵

当院、開基山本弥衛門忠房の娘せきの供養の為つくられました。この女性は大変お酒を好みお酒を供えると「咳の病」が治ると伝えられております。

松本斗機蔵の墓

松本斗機蔵は千人同心組頭で天保8年(1837年)に書き上げた「献芹微衷(けんきんびちゅう)」で海防や開国を論じました。天保12年に亡くなり、当院にお墓があります。(東京都指定旧跡)

牡丹

ホームページを飾る牡丹は、本堂前庭に100種類の牡丹があります。当山は市街地にある寺院ですが、4月10日頃より5月上旬まで牡丹の花を楽しむことができ、毎年多くの方が訪れます。

ねがいのお札

せき地蔵尊のお札です。基本的に「除せき祈願のお札」です。他の願意も書けるようになっています。赤色のお札は貼って頂き、白色のお札は身につけてお持ち下さい。五百円です。

寺務所、御朱印について

当山には、本尊様、寿老尊、せき地蔵の3種類のご朱印がございます。 寺務所にて、お声がけいただければお書きいたします。

松本斗機蔵胤親 寛政五年(1793)~天保十二年(1841)事績

天保八年(1837)9月「サレバ今海国ノ武備ヲ堅固ニセントナラハ、西洋船ニ劣ラヌ高大堅牢ノ大船ヲ造ルヘシ」という主張に始まる『献芹微衷(けんきんびちゅう)』が、水戸藩主徳川斉昭に献上された。著者は千人同心の組頭松本斗機蔵胤親(たねちか)である。
その主旨は

  1. 西洋型大船の建造、オランダ人による指導と乗員訓練。
  2. 海岸の諸候による西洋型大船の建造と運用。
  3. 大船の標識・備品・海難への備え。
  4. 水戦の訓練と異国船への警戒。
  5. 江戸近海への異国船の脅威を警告。さらに日本近海の警戒を厳重にすべきこと。
  6. 千島・樺太・琉球の現状と対策。
  7. ロシアとの国交を開き、さらにはイギリスとの交易の公認。

嘉永六年のペリー来航よりさかのぼること16年前の著述である。鎖国の時代、松本斗機蔵はいかにしてこの主張に至ったのであろうか。

1.海外情報への関心

斗機蔵の父六郎胤保は、同じく組頭として寛政十二年(1800)から6年間江戸霊岸島で蝦夷地御用江戸掛を務めていた。この時期千人頭原半左衛門胤敦が100名の部下と共に開拓と警備のため蝦夷地に渡っていた。幕府と赴任先との連絡事務にあたったのが御用江戸掛である。これは寛政五年生まれの斗機蔵が8歳から13歳の時期に当たる。父胤保がもたらす蝦夷地に関する情報・知識、さらには江戸の学問等の刺激は斗機蔵に少なからぬ影響を与えた。
斗機蔵の学問の師は塩野芸園と適斎父子であった。文化六年(1809)17歳で昌平坂学問所素読吟味をへて、文化十一年(1814)22歳で組頭となった。斗機歳の転機は文化九年の最上徳内の八王子来往にある。官材切出御用・ウルシ栽培・製蝋事業のため来往した徳内との12年間に及ぶ交流は、北辺や海外諸国の事情についての知識を得る出発点となった。また重要な書籍および地図等の借覧と書写がその後の著述の基礎となっている。さらにこの時期の学問上の交流は、天文方高橋景保(満州語を学ぶ)・近藤重蔵・岡本況斎はじめ広い範囲におよんだ。

2.異国船の接近と尚歯会(しょうしかい)

19世紀初頭、元号が文化と変わる頃より、異国船の脅威は差し迫った状況にあった。ロシアのレザノフの長崎来航(1804)、レザノフ配下の樺太襲撃(1807)、西蝦夷地の幕府直轄化と松前奉行の設置(1807)、最上徳内および間宮林蔵による北方探検(1808-09)、長崎でのフェートン号事件(1808)、イギリス捕鯨船の常陸大津浜上陸、薩摩宝島での牛の略奪(1824)など鎖国体制は動揺した。文政八年(1825)幕府は異国船無二念打払令を発した。国内の状況も天保の大飢饉以来混乱の状態を示した。これに対応し紀州藩儒官遠藤勝助は、対策を討議する場として尚歯会を設けた。そのメンバーの中に、後に蛮社の獄にかかわる高野長英・渡辺崋山がいた。遠藤の著述『救荒便覧』には重要メンバーが跋文を寄せているが、斗機蔵もその一人であった。
尚歯会にあって、飢饉による混乱と疲弊は外国からの侵略の危険と表裏の問題ととらえられた。幕府の打ち払い処置を危ぶむ見解は、海外事情に通じた同志の人々の共通意見であった。斗機蔵と伊豆韮山代官江川英龍、水戸藩士藤田東湖といった人々との密なる関係も、異国船の脅威に対する共通認識から生じたものであった。
天保九年(1838)年10月15日尚歯会の会合で、イギリス船(実際はアメリカ船)モリソン号が再来航するとの情報がもたらされた。幕府評定所の対応は、異国船打払令を適用する事に決したというものであった。この前年6月、モリソン号は日本漂流民を護送し浦賀に接近、砲撃により退去。7月には薩摩山川沖停泊中、砲撃を受け退去させられている。
後に高野長英『戊戌夢物語』渡辺崋山『慎機論』の著述がなされ、幕府批判の書として弾圧の対象となったのは、このモリソン号事件が契機であった。

3.天保八年(1837)の『献芹微衷』の献上

同書は「天保八年七月十九日起八月九日脱、浄書八月十二日起八月二十日訖」と記されている。
これともなう斗機蔵の行動は、9月19日水戸藩藤田東湖と応談、同20日江川英龍の江戸役所訪問(江川家文書)、この時に写本が江川家に渡る(同家文庫所蔵)、同23日渡辺崋山の江川邸訪問、同25日水戸藩主徳川斉昭への献上、となっている。
斗機蔵の主張は識者の注目するところとなり、写本として広まり共鳴者を増した。幕末の勝海舟の手沢本(足利学校図書館蔵)の中にも「松本斗機蔵建白二通」(献芹微衷とモリソン号についての上書)が収められている。モリソン号についての上書は天保九年十二月に幕府に提出されたものである。天保十年三月斗機蔵は、さらに江戸湾防備を内容とする『献芹微衷附編』の著述をおこなっている。

4.蛮社の獄と斗機蔵のその後

天保十年(1839)に始まる蘭学者弾圧である蛮社の獄を機に、斗機蔵と他の同志たちとの命運は全く異なるものとなった。厳罰に処せられる可能性を覚悟し、同志の名を記した文書の処分、借用書籍・資料の返却等の身辺整理を行った。また重要所蔵文献、地図をはじめとする資料を守るため遠藤勝助と諮り、これを紀州藩赤坂藩邸内の藩校明教館へ献上した。蛮社の獄が起こる直前の事である。

事件との関係を疑われた江川太郎左衛門、内田弥太郎ら幕臣は、老中水野忠邦の再調査で告発を免れた。斗機蔵もまた処分を受けた同志とは異なる転機を迎えた。水野忠邦自筆の『覚』によれば、同年五月浦賀奉行伊沢美作守政義により、有為の人物として幕府に推薦された。同十二月には、水野忠邦は千人同心組頭4名の表彰を槍奉行に文書で命じた。斗機蔵は学問出精により銀7枚を下賜されている。
斗機蔵は水戸藩藤田東湖への書簡にて、尚歯会同志のその後の動向を記すなどの手がかりを残す中、天保十二年九月十九日浦賀奉行所(与力と推察される)赴任直前、病により49歳で没した。

5.松本家のその後

斗機蔵の遺児小次郎胤彰は、嘉永五年(1852)15歳で組頭見習、安政六年(1859)組頭、文久元年(1861)九月24歳で病没した。松本家は継嗣を欠いたため、斗機蔵の娘和歌の嫁ぎ先本郷村名主の横山忠右衛門が和歌と共に松本家に入り、忠右衛門良胤と称した。組頭として将軍家茂上洛・横浜警備などに従事した後、明治維新の千人隊廃止にともない千人町役宅より生地本郷村に戻り、元名主で絶家であった渡辺家を再興し居を定めた。宗格院の松本家墓地を継承後、忠右衛門良胤、改蔵貴胤、正胤、忠胤、良胤(当代)と続いて現在に至っている。

文 渡辺良胤

松本斗機蔵の詳細については、学習院大学名誉教授 大野延胤著『松本斗機蔵 幕末の開明派、憂国悲運の幕臣 その人と献策』近代文藝社 2011年1月刊を参照されたい。

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